一、天地に轟く 歓喜のどよみ
帰れる君らが 輝く勇士
練りに練りたる 日頃の腕
奮闘努力の 尊き極み
二、歌へや歌へや 選手の力
勝利の栄誉は 天下に高し
諏訪堂軍神 光を馳せて
君らを迎ふる 此の黄昏に
長高卒業後、北大に進学し医者となった同期のO君はかの有名な恵迪寮に入り、寮生活を送ったそうである。彼が昨年(平成17年)6月に「50☆50の会」のホームページの掲示板に投稿した文章を引用する。
「一年浪人の後に進学した北大は、長高からはほとんど行かない大学で、うちの親も札幌と函館の区別がつかなかったようでした。札幌までは途中青函連絡船をはさんで列車で丸一日かかりました。向こうでは年配の人たちは北海道を本道、本州を内地と呼んでいました。
大学構内の原生林に恵迪(けいてき)寮があり、そこで教養部2年を過ごしました。ぼろぼろの木造で寮生は270人。5人部屋で、まだ健在だった学生運動の各セクトもまざっていて、騒々しくも大学らしい活気がありました。
寮では毎年寮歌を作っていて当時すでに100ほどあり、春になると寮歌指導が何日も行われました。数ある寮歌の中でもっとも好まれているのが明治45年度寮歌『都ぞ弥生』です。寮生だけでなく学生も教員も、北大のどんなコンパでも最後に肩を組んでこの歌の合唱となるのでした。
この歌ができた当時の北海道は開拓半ばでまだラジオも普及していなかったはずですが、この寮歌は道内に広まり、ごく普通の人々にも口ずさまれるロングベストヒット曲になります。それは歌の出来のよさだけでなく、厳しい開拓の中でその日その日を必死に生きている人々の大学への期待や憧れが、また大学で学ぶものにとってはその期待に応える使命の自覚が、こめられていたのではないかと思います。
また、歌い方が時代によっても変わりました。軽快なテンポで歌われたこともあれば、一節一節を息の続く限り伸ばして歌われたこともありました。それはできるだけ行かせないようにと学徒出陣の見送りのときの歌われ方でした。
入学してこの『都ぞ弥生』を初めて聞いた時、驚いたことはその曲をよく知っていたことでした。長高の『凱旋歌』と同じ旋律だったのです。寮生の話を聞くと『都ぞ弥生』は全国のあちこちの高校で同じようにそうとは知らずに応援歌などになって歌われていました。それを寮で歌うと、「(そんなまがい物は)やめろ!」と怒鳴られるのですが、自分たちの高校で歌っていた曲が実は自分の憧れ進んできた北大の伝説の寮歌だと知った時のうれしさ、それはまるでこの歌に導かれてここへ来たのだというような感覚を持ったのでした。そして、この『都ぞ弥生』を誰が、いつ、長高の『凱旋歌』にしたのか、そして何を託そうとしたのかと考えてしまうのでした。」
もうお判りのことと思う。長高の『凱旋歌』は北大恵迪寮歌『都ぞ弥生』の前半部分から採られた曲である。但し、『凱旋歌』の場合各節の最後を、勝利の余韻に浸るかのように充分に伸ばして歌う。このテンポ感が『都ぞ弥生』とはまた違った趣を感じさせ、歌っていてある種の心地よさを覚える。
『都ぞ弥生』 (北海道帝国大学予科明治45年恵迪寮歌)
作詞:横山芳介 作曲:赤木顕次 (明治45年)
一、都ぞ弥生の 雲紫に 花の香漂う 宴の莚
尽きせぬ奢りに 濃き紅や その春暮れては 移ろう色の
夢こそ一時 青き繁みに 燃えなん我が胸 想いを載せて
星影さやかに 光れる北を 人の世の清き国ぞと 憧れぬ
文: 長高 健児 (ながたか けんじ)
企画・制作: 長岡高校S50年卒「50☆50の会 印刷・HP分科会」
(2006.2.15掲載)