長岡高校応援歌物語・第二章 『応援歌(其の一)』

浮島五十の夢包む  蒼紫の森の深緑
緑に振ふ山彦は  長陵軍の球の音
聞け益良男の雄叫びを  鋸下ろす雨風に
鍛へし腕今ぞ今  力にうなる晴戦(はれいくさ)

この歌は明治27年に発表された唱歌『婦人従軍歌』の一部を引用しており、後半部の「吹きたつ風はなまぐさく・・・」が『応援歌(其の一)』(以下『第一応援歌』)の「緑に振ふ山彦は・・・」の部分と合致する。


『婦人従軍歌』(唱歌)  作詞 加藤義清  作曲 奥 好義  (明治27年)

一、火筒の響き遠ざかる 跡には虫の声たてず
吹きたつ風はなまぐさく くれない染し草の色

二、わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ
斃れし人の顔色は 野辺の草葉にさも似たり

五、味方の兵の上のみか 言も通わぬ仇(あた)までも
いとねんごろに看護する 心の色は赤十字


この歌の作詞者は明治の歌人で宮内省の御歌所寄人も務めた加藤義清である。日清戦争のさなか、当時近衛師団の軍楽隊楽士であった彼が、新橋駅で出征兵士を見送った際、同じ列車で戦地に赴く若き赤十字看護婦の一隊を見て感激し、一夜にして書き上げたと言われている。この詩に当時宮内省の楽師兼華族女学校の教官であった奥好義が曲をつけた。

行進曲風のリズムと勇壮なメロディーのゆえんで軍歌と思われることが多いが、この曲は従軍看護婦を主題とした唱歌で、敵味方を問わず献身的に看護する赤十字看護婦を讃える内容となっている。

実はこの『婦人従軍歌』を基にして作られた曲がある。長高の『第一応援歌』の元になったと思われる曲である。(厳密に言えば、この曲がルーツである。)
以下に紹介する。


『古都千年』(旧制第一高校野球部凱歌)作詞 田中木叉 作曲 廣田守信 (明治38年)

古都千年の夢つつむ さが野の春の花がすみ
霞の奥の山びこは 一高軍の球の音
きけますらおのおたけびを あられたばしる武蔵野に
きたへしかひな今よ今 力にうなるはれ軍(いくさ)

ところで、この「第一応援歌」と次の「第二応援歌」は曲調もリズムも詩の内容も似通っているため、続けてメドレーで歌っても違和感がない。共に野球団(野球部)への応援歌であり、同じ時期に作られた作品であろうと推測される。

我が長岡中学校は1915年(大正4年)から始まった「全国中等学校優勝野球大会」に1918年(大正7年)の第4回大会から第7回大会まで連続して四度出場を果たしている。(但し、第4回大会は「米騒動」のため開催を中止。当時は豊中球場で開催)おそらく、この時期に野球団の応援歌を作る機運が高まり、各地の他の出場校との「情報交換」を行うなど、急速に応援環境が整備されたのではないかと思われる。

尚、インターネットで全国の各高校のホームページを訪ねてみて、「応援歌」の項目にあたってみたところ、長高の『第一応援歌』とほぼ同じ歌詞を持つ応援歌に遭遇した。
これも『古都千年』を本歌取りした歌である。以下にご紹介しよう。

『三千年』〔長野県立伊那北高校(旧制伊那中学校)応援歌〕

三千年の夢包む 薫ケ丘の深緑
木立の奥の山彦は 伊那高軍の球の音
聴け丈夫の雄叫びを 霰(あられ)玉散る岡の辺に
鍛えし腕今ぞ今 力にうなる晴戦(はれいくさ)

フレ伊那 フレ伊那 フレ フレ フレー


文: 長高 健児 (ながたか けんじ)
企画・制作: 長岡高校S50年卒「50☆50の会 印刷・HP分科会」
(2006.2.17掲載)

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