長岡高校応援歌物語・第五章『応援歌(其の四)』

一、洋々流るゝ信濃川 行くや千里の北の海
峨々たる嶮峰鋸は 男子に与ふる黙示有り

二、歴史は古りて半世紀 吾が先人の其の意気を
戊辰の昔に忍びては 猛き心の躍らずや

三、いざ戦はん諸共に 正義の戦華やかに
真紅の御旗(みはた)手に持ちて 長陵健児こゝにあり

この曲は知らない人がいないと言っても過言ではないほど有名である。大部分の人は「聞け万国の労働者・・・」で始まる『メーデーの歌』を思い出すと思うが、軍歌『歩兵の本領』にも同じ旋律が使われている。実は、明治34年に旧制第一高等学校の第11回記念祭寮歌として作られた『アムール河の流血や』が元歌である。


『アムール河の流血や』(旧制第一高等学校第十一回記念祭寮歌)

作詞 塩田 環  作曲 栗林宇一 (明治34年)

一、アムール河の流血や
氷りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は
怪雲空にはびこりつ

三、満漢すでに力尽き
末は魯縞(ろこう)も穿ち得で
仰ぐはひとり日東の
名もかんばしき秋津島


明治33年6月、北清事変の最中に清国兵がロシア領ブラゴベシチェンスクを襲撃したことへの報復として、ロシア軍はロシア領内の清国人居留地に住む民間人25,000人を虐殺し、黒竜江(アムール河)へ投げ込んだ。この事件は日本中を震撼させ、日本人の「反露感情」を大いに高めさせることになるのであるが、この歌は「嫌露・反露」感情を煽るというよりも中国の衰退を予測し、これからのアジアの盟主たるべき日本への賛歌といったような内容となっている。

この歌はメロディーが簡単で歌い易いため、全国の数多くの学校の応援歌や運動会の歌として採り上げられた。この歌を借用した応援歌は前述の『天は晴れたり』よりも多いのではないかと思われる。

城東(東京)、上田(長野)、北野(大阪)、福岡(岩手)、浜松商(静岡)、古川(宮城)、沼津東(静岡)
なお、竜ヶ崎一高(茨城)では「校歌」として歌われている。


『北野高校 応援歌第一』

澱江春の花の色
錦城秋の月の宴
歴史はふりて世は荒れて
ただ幻の映え匂う


『上田高校 応援歌(千曲の流れ)』

千曲の流れ絶え間なく
浅間の煙つきやらず
栄えある歴史残しつつ
星霜ここに六十の


『沼津東高校 応援歌(岩をも溶かす)』

岩をも溶かす炎天下
肌も裂くなる冬の霜
千辛万苦の練習や
我等が魔球を受けてみよ


『竜ヶ崎第一高校 校歌』

千秋の雪積もりたる
富士の高嶺の雄姿ぞ
幾万代の後までも
変わらぬ誠の鑑なる


『歩兵の本領』       作詞 加藤明勝 作曲 栗林宇一    (明治44年)

一、万朶(ばんだ)の桜か襟の色
花は吉野に嵐吹く
大和男子(おのこ)と生まれなば
散兵戦の花と散れ


「万朶の桜」とは数え切れないほど花をつけた桜の様子を意味し、歩兵の襟章の色が緋色であることから桜の花に譬えている。兵士に戦場で潔く散ることを強いる、典型的な軍国主義の歌で、第二次世界大戦の終わるまで広く歌われた。(ちなみに、砲兵は黄、騎兵は緑が襟章の色)

『第四応援歌』の二番の歌詞に、「歴史は古りて半世紀」という言葉があるが、「明治5年」から起算して50年というと大正10年頃になるから、やはり前述したとおり、「全国中等学校優勝野球大会」の出場にからんだ時期と一致する。後に述べる『団歌』にも「桂冠ここに五十年」という言葉もあり、この時期に一連の応援歌が作られたものと思われる。

我々が現役だった頃、この『第四応援歌』は一回も歌わなかったと記憶している。この曲が「メーデー歌」や「軍歌」であることからそのイメージのあまりに強すぎるをもって敬遠されたのか、あるいは「男子に与ふる」という語句が「女子」の反感を買ったからかどうかは不明であるが、当時の応援練習では歌わなかった。メロディーは知っているから、歌詞カードを見れば歌えると思う。東京同窓会当日もみんなで声をそろえて歌って欲しい。

文: 長高 健児 (ながたか けんじ)
企画・制作: 長岡高校S50年卒「50☆50の会 印刷・HP分科会」
(2006.3.25掲載)

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