長岡高校応援歌物語・第十章『出塞賦』


嗚呼 黎明(あさ)来たる黎明来たる
暁の鐘殷々(いんいん)と
兜城下に鳴り響く
門出の朝(あした)祝うかな

一、長陵岡のそよ風に
鬚髯(しゅぜん)なびかせ滔々と
進め竜啼嘶くぞ
鉄衣我が背に翻へる

二、逸る若駒押へつゝ
鋸山連峰前にして
紫廟に勝利を誓ふ時
雄志は胸に溢れ出づ

三、信江流に漱ぎ
血潮を胸にたぎらせて
手綱引きしめ粛々と
流沙に向う意気高し

四、彼の蒼竜が志を受けて
忍苦正に幾星霜
必勝の意気胸にして
進み出づる柏葉門

『出塞賦』は戊辰戦争当時の長岡藩士が戦地に赴く際の情景を通じて、試合に臨む選手への思いを巧みに織り交ぜて作られている。早朝の鐘の音に導かれ、いつの間にか維新前夜の長岡城下に迷い込んだかのような、まるで映画を見ているような臨場感、あたかも藩士と一緒に行軍しているような錯覚に囚われる。そして一転して、蒼竜(河井継之助)の志を受けた我ら長高生全員の代表としての選手を、「柏葉門」から送り出すところで終わる。詩の格調の高さ、高揚感、感動を呼ぶ物語性、現在から過去へそして再び現在へと大きな時の流れの中に歌い込む構成力のなんと見事な事か。長高の応援歌の中で一番好きな歌であった。この歌を歌うたびに心の高ぶりを覚え、「ヤルぞ!」という気持を奮い立たせたものである。

しかしながら、この歌のテーマが戊辰戦争の故事を物語っている以上、どうしても悲観的な結末が想起されるのは否定できない。私ごとではあるが、現役の受験の当日の朝、この歌を口ずさんで試験に臨み、すべての大学に玉砕した。その時初めて、この歌は受験には「似つかわしくない」ことを悟り、翌年は心の中に封印してどうにか志望校に滑り込んだというほろ苦い思い出がある。そうはいっても、これらの事実がこの歌の素晴らしさを一片たりとも否定するものではない。

それはさておき、この歌にも元歌なるものが存在する。旧制第三高等学校寮歌『紅萌ゆる丘の花』(別名『三高逍遥の歌』)である。


旧制第三高等学校寮歌『紅萌ゆる丘の花』   (三高逍遥の歌)

作詞:澤村胡夷  作曲:K.Y     (明治37年)

一、紅萌ゆる 丘の花
早緑匂う 岸の色
都の花に 嘯けば
月こそかかれ 吉田山

二、緑の夏の 芝露に
残れる星を 仰ぐ時
希望は高く 溢れつつ
われらが胸に 湧返る


この曲は、旧制第一高等学校寮歌『嗚呼玉杯に花うけて』と同じく、歌い継がれる間に短音階化したが、オリジナルでは長音階であった。また、一般的に歌われている旋律は「ラーミラード シーラシー ラードミーファ ミー」であるが、我が長高の『出塞賦』の旋律は「ララーラード シーラシード ミミーファーファ ミー」となっており、そのため、『出塞賦』と『紅萌ゆる丘の花』とは違う歌であると信じて疑っていなかった。
しかし、出だしの部分が違うだけで後半部はまったく『紅萌ゆる丘の花』と同じであるし、どうやら同じ曲らしいとは思いつつも、腑に落ちなかった。

ところが、金田一春彦・安西愛子編による「日本の唱歌(下)」(講談社文庫)の解説によると、「・・・(略)もっともこれも個人により、楽譜の第一行の第一小節(筆者注:出だしの部分)は「ラララド」とも歌われる。」とあり、長年の疑問が氷解した。

元歌の『紅萌ゆる丘の花』は戦後間もない昭和21年(1946年)に封切られた、黒沢明監督、原節子主演、杉村春子、志村喬共演の映画『我が青春に悔いなし』のバックにも印象的に使われている。

この歌も応援歌(愛唱歌)として他の高校でも歌われている。以下に紹介しよう。


黒沢尻北高校 『黒陵逍遥歌』

流れて尽きぬ 北上の
水上遠き 和賀の野に
咲くや野菊の 香も清く
白露宿る 萩ケ丘


さて、この歌に限らず、我が校の応援練習は口伝え、聞き覚えの練習であり、歌詞の内容、意味等の解説は一切してくれない。だから、入学したばかりの新入生の国語知識では理解できない内容も多かった。もっぱら、それを解消してくれたのは数多くいらした「長高出身」の教師たちであった。

特に「地理」を教わった五十嵐先生の授業では『出塞賦』の解説が有益であった。
「”紫廟”とは蒼紫神社に祀られている代々の長岡藩主の墓所のことである。」「”竜啼”とは蒼竜河井継之助の愛馬の名前である。」「”鋸山”は(きょざん)と読む。」といった類の事柄を数多く教わった。残念なことに、肝心の「地理」の授業内容はまったく記憶にない。

五十嵐先生の授業の思い出で今でも覚えていることがある。先生は「鉄道ヲタク」でもあり(?)、授業中に「広軌」、「狭軌」、「ナロー」(筆者注:線路の巾による区分)と鉄道話も盛んにされていた。その当時、日本に唯一存在していた、最後の「ナロー」の鉄道路線(と先生はおっしゃっていたが、実際は[「ナロー」の路線は他にも存在していたことが後年判明。)、越後交通 栃尾線(通称「トッテツ」)の解説などを楽しく拝聴したものである。

「トッテツ」も昭和48年4月に廃止され、最後の越後交通 長岡線も昭和50年3月、我々の長高卒業と時期を同じくして廃止された。『出塞賦』を聞くと、当時の長岡の町の記憶が鮮やかに甦ってくる。

文: 長高 健児 (ながたか けんじ)
企画・制作: 長岡高校S50年卒「50☆50の会 印刷・HP分科会」
(2006.4.14掲載: 長高東京同窓会まであと8日)

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